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洞窟の比喩

ミハ・コシル著・天利なつき訳

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プラトンの最も有名な著作である「国家」の中に、洞窟の神話として知られる短い話をみることができる。

ソクラテスは耳を傾ける者たちに、洞窟の内側を向いて鎖でつながれた人たちの暮らす地下の世界を思い浮かべるように言った。彼らは鎖でしばられているので、背後にあるものや目の前の壁に影を映し出している炎を見るために振り向くこともできない。捕虜たちはこのような状況下で生まれたので、彼らはそれらのちらちら明滅する影以外今まで見たことがない。時が経てば人々は影の中に違う形を認識し、分類し、そこから世界のすべての知識を発展させはじめる。

プラトンは、なぜいくらかの人がなんとか鎖を壊し、すべての新しい真実をみはじめたのかということについては言及していない。しかし彼らがそうして新しい状況に慣れたとき、彼らはさらに洞窟の上に向かう道をみつけはじめる。これはもはや、現実の他の段階について示している。すべての過程には、新しい状況を受け入れ新しい在り方へ「動く」ことができるようにするための多くの努力と小さな内面の変化が要求されるから、決して簡単ではない。プラトンにとって真実の知識は洞窟(私達が感覚により知覚する世界を象徴する)の外にあり、そこでは永遠の法則がみつけられる。洞窟の外にある最も高貴な根源は太陽なので、究極の善とたとえられる。やがて洞窟をなんとか脱した人々は、仲間の人類が道をみつけ、鎖と無知の暗闇を破れるよう助けるために戻る。

このお話が本当に言っていることは、本当は知らないのに知っていると思いこんでいることに気づくことが、最初はとても難しいということだ。私達の“影”に基づく間違った信念や考えが私達を拘束している。おそらくソクラテスの簡潔な知恵である「私は自分が何も知らないということを知っている」と唱えることが、ソクラテスの説くようなすべての知恵のはじまりである、世界を驚きの目でみることを助けてくれるであろう。そしてもしも私たちがそれにいくらかの愛を添えるなら、私たちは哲学者と呼ばれるにふさわしい。

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