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他者との違いを認め、自身を認めるということ

ジラッド・ソマー著・天利なつき訳

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私たちは皆違う。
これは当たり前のことであるのだけれども、精密な調査と研究が最も必要とされることでもある。


たとえ私たちがみな人間としての本質的な経験を共有していたとしても、私たちはそれぞれこの経験を個人的な性質と生い立ちよりも意識を通して解釈している。そして意識とは個人としての感覚を私たちにもたらし、私たちを地球上のどの人とも異なる独特な存在にしている神秘的な要素である。

 

それゆえに、私たちの一人ひとりが人間としての経験の断片を生きている。

大統領の生活は炭鉱夫や報道関係者のそれとは異なり、女性としての経験は男性とは違い、貧しいものと裕福な者の経験も異なるものであろう。
しかし、たとえ私たちが何者であろうと、誰も人類の現実のすべての範囲を経験することはできない。

それゆえに、私たちのどの世界観も不完全なものである。それは部分的に真実を基盤としているが、部分的には無知が基盤となっている。
もし私たちが謙虚に自分たちの世界観が欠損のあるものと受け入れ、他者の世界観に耳を傾け、他者の生き方を観察したら、私たちは真に理解を広げ、より広範囲にわたる真実の絵図を組み立てることができるだろう。


しかしながら、私たちはそれを実現できそうにもない。私たちの相違が争いを起こしつづけ、寛大さの全体的な欠如と共鳴しつづけているからだ。 それらは私たちと違う考え方をする人に対する非難やあざけりという形で表現される。これが異なる世界観を持つ者への暴力の極端な例であることは言うまでもない(だが、残念ながらそれらは極端なものではなくなり、むしろ一般的になってきている)。
 

私たちはなぜ、私たちが生涯において望む生き方の違いについて争いつづけるのだろうか。 

 

ソーシャルメディアの時代では、私たちは世界規模の対話や意思疎通のための公開討論の場をもっているが、多くの話し手がいる一方、対話が少なく、むしろ対立した独白の場が多くなっている。そこでは誰も話を聞いておらず、他者から学ばず、ただ彼ら自身の考えを大声で叫ぶ。 

もしかすると、意思疎通をとるための場があるだけでは不十分なのかもしれないが、私たちは自分たちの意見を伝え合うことを学ぶ必要がある。

 

私たちは皆人類としての経験を共にしているので、私たち皆に共通する何かがある。共通の経験を念頭に置くと、現実のわずかな相違は問題ではなく、むしろ解決方法だと気がつく。共通の経験は私たちが互いの良さを引き立て、社会に調和をもたらすことを可能にする。

 

調和のとれた共生における主な倫理的原則は、生きることと生かすことである。互いを無視しあうという意味ではなく、他者に自分たちの意見を押し付けず、かつ考えを表現することや他人に耳を傾けるのを恐れないという意味である。 
 

それは他人を理解する努力をするということだ。そして彼らに同意しないからという理由だけで、彼らの意見が非倫理的であると決めつけないということだ。


私たちは、おそらく他者の世界観が私たちにとってそう見えるのと同じくらい、我々の世界観が他者にとって奇妙なものであるということを覚えている必要がある。

 

私たちの世界は多くの問題に直面している。もし私たちが我々の違うやり方に耳を傾け、調和させることができなければ、それらの現実的で目前にある課題に立ち向かうために必要であるクリエイティブな解決策をみつけることができないだろう。考えの柔軟さから生み出される対話が真に必要とされている。

 

以上の文脈から、いくつかの疑問が頭に浮かんでくるだろう。

私たちは、早く評価しすぎるのではないだろうか。

私たちは、他人の異なる世界観に対する権利を認めることができるだろうか。

私たちは真に他者の世界観を理解しているだろうか、それとも私たちの思考の中にただそれに対する風刺があるだけであろうか。私たちはメデイアやその他の影響力のある要素によって、どのくらいの偏見を持たされているのだろうか。
 

また、私たちの違いを認めることにおいて、本来の姿であることの大切さが重要視される。

もし私たちが自身を認めていなければ、他者を認めることなどできない。

ときどき私たちは認めてもらえないことを怖れるがゆえに、自分として存在することに恐怖を感じる。

しかし、もし私たちが誰か他の人であることに忙しく、常に期待される通りの者であろうとするならば、私たちは我々のパズルの一片を寄与することができない。
 

本来的であることは必ずしも独特であること、大げさなこと、あるいは反抗的なことを意味するとは限らない。

それはただ私たち自身で在るということであり、他に特別な表現はない。

しかし私たちで在るために、私たちはあらゆる哲学的な旅への一歩を踏み出さなければならない。あなた自身を知るために。
私とは何者であり、何が本当に私なのか。そして私のどの部分がとりわけ社会的な慣習、怖れ、習慣を基盤としているのだろうか。
私たちの社会が切に求める調和は私たちが自身を認め、他者を認めることから始まる。
これは簡単な作業ではないが、それだけの価値があることだ。

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