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これは免疫を作るという話ではありません

デリア・スタインベルク・グスマン著
長谷川涼子訳

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私たちは汚染された世界に生きており、徐々にそのことに慣れてしまっています。環境汚染の度合いは、特に大都市圏では日ごとに増していますが、その場所での(生活上の)様々な責任からは逃れられないため、私たちは単純にその状況に順応しました。私たちの体は免疫を作り、そしてほとんど自然に、この不自然へ慣れてしまっているのです。

しかしながら、その過程はより困難なものです。この状況は物質的な環境にとどまらず、それを超えて精神的・心理的レベルに達し、予期せぬ度合いで人間の経験を汚染してゆくのです。

精神的な汚染は、生活のあらゆるひび割れに忍び込む露骨な感情という形で表に出ます。暴力、攻撃性、度を越したわがままなどは、ほとんどの社会において普通の手段になっているようです。

最初、それらは大きな苦しみを引き起こします。それらが切れ目なく続き、いよいよ決壊まで持ちこたえられないのではないかと思われる頃になると、私たちは自分自身を守るため免疫を作り出し、できるだけましな状態で現状を維持するのです。

私たちが不安全や恐怖、無力状態に脅かされているのは間違いありません。しかし、免疫が作り出しているのは冷淡さを装うふるまいであり、現実性を欠いたものです。こうした冷たさで、私たちはメディアが日々お茶の間に届けてくれる度を越した残酷さを受け入れてしまっています。つまりこの仮初めの冷淡さはひとつの抵抗であり、自分に対して「こんなひどいことはまだ無関係だ、自分にはもっと猶予があるはずだ、ことによると逃げ切れるかもしれない」と言い聞かせているわけです。

そして、私たちが安息の地とみなしているはずの隠れ家(らしき場所)にさえ及んでしまっている腐敗に対しては、どうすればいいのでしょうか? ここでも「冷淡」の出番です。銃弾を避け、何も目に写らなかったかのように歩き続けるわけです。なぜなら抗議などしても実らないだけでなく、身の安全をも脅かされかねないことを、私たちは直感で知ってしまっているのですから。抗議活動を正当化し足を踏み入れる人はいます。が、他の人間は被害を被らないよう横に避けます。良心が私たちに恥の心を呼び起こそうと警告するような物事を、免疫はあらゆる手で普通のことだと思い込ませようとするのです。

現在において優れた意見は、同時に多種多様なウイルスの攻撃を受けてもいます。何よりまず、意見をもつ、つまり「考える」ということが少数派になっています。世論の中で認識されている話題はバリエーションに欠け、また巧妙に操作されています。そして選択肢が無いままのこの状態こそ、みんなが「考えている」と思い込んでいることの中身なのです。

この病的状態に直面すると、免疫はもう一度働きます。免疫はそうした意見(という呼び名に値するかはともかく)を受け入れ、それと相反するものを全て拒絶します。根本的に、この受身の姿勢は健全なものではなく、「自分が自分自身で理性を働かせていない、仮にそうしたところで頭のおかしい人間扱いされるだろう」と潜在的に認めていることに過ぎないのです。

私たちはすっかり変質してしまいました。免疫は免疫なりに助けてはくれますが、そのやり方は自然な生き方ではありません。もし私たちが突然この汚染された社会から離れ、どこか天国のような全く別の素晴らしい場所へ行ったとして、戻ってきた時には、この汚濁の真っ只中で息をするのにどれほど馴染んでいるか身に染みるはずです。

この状況下で、私たちには二つの道しかありません。世代を重ねて変質に身を委ね、さらに人工的になっていびつな汚染に適応してゆくか、空気や感覚や意見を浄化する対策を追求して汚染を排除するか、どちらかです。後者の案は非常に難しいものです。もっと早く始めていればやることも少なくて済んだのですが、今や私たちは自分の首を絞めている害悪と向き合わねばならず、こういった害悪は多くの場合、私たちが道を切り開く力を奪うものなのです。

しかし、やるだけの価値はあります。これは免疫を作るという話ではありません。健康な肉体で生きるという話なのです。数限りない攻撃から身を守りながら生きるという話でなく、人類にとってより多くより良い可能性を生み出しながら生きるという話なのです。哲学を応用すれば、この可能性は無限です。


元記事リンク↓
https://library.acropolis.org/its-not-about-producing-antibodies/

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