自由意志にまつわる問いは、人類の向き合うもののうちもっとも古く、もっとも永く考えられてきたものです。古代ギリシア人は、「オイディプス王」などの悲劇を通してこのことを深く考えており、それらの物語の中では、主人公が運命に抗ったり避けたりとあらゆる努力をするにも関わらず、まるで定められた方向へ追い込まれてゆくかのように描かれています。ギリシア人とその文化的後継者・ローマ人は、三人の運命の女神という概念を持っていました。女神たちは人間の運命の糸を紡ぎ、織り、そしてあらかじめ決められた時が来ると、その命の糸を切るのです。

東洋においては、ダルマ、カルマ、輪廻転生の教えが、こうした問いをもっと明確に説明する助けとなっていました。ダルマとは法であり、それに則って、どんな存在も自らの自然の性質からくる運命を持つというものです。時間、それも(輪廻の教えを考慮すれば)長い長い時間とともに、カシの種はカシの木となり、人間は成長して豊かな表現を持つようになります。カルマとは行動とそれに対する反作用の法です。つまり、私たちがあらゆる場所(心の中のような不可視の場所も含め)でとるあらゆる行動は、必ず何かの報いを受けます。その報いは、私たちの行動が生命の自然な法則と調和しているか否かによって決まるのです。これに従い、私たちはカルマ、つまりよい報いと悪い報いを築きます。このカルマが、私たちの過去の行動に従って苦い実、または甘い実をもたらすのです。この一連の仕組みの目的は、(1) 生命の法則を理解する助けとなる (2) 正義をもたらす (3) システム全体を守る(報いを伴わない無制限の自由は、宇宙の秩序の破壊につながるため) というものです。

この手法は、人生という舞台に立つ俳優にとって、知性の道しるべと自由意志の両方を示唆してくれるものです。東洋の哲学者たちはきっと、オイディプスは過去の自分のカルマ、あるいは自分も属していた家族のカルマの積み重ねによりあの悲劇に至ったのだ、と言ったことでしょう。しかし、彼が自分の自由意志を振り向けていたのは、自らの悲劇的な運命に対してどう反応するか――威厳と気高さか、さもなくば恨み、怒り、苦さ、憎悪か、ということでしょう。

エピクテトスやマルクス・アウレリウスを始めとする古代ローマのストア派哲学者は、とてもよく似た手法を取っていました。彼らによれば、人生における外的要因の多く、例えば家族や生まれた国、健康、名声、富などといったものは、人間のコントロール外のものでした。こうしたの要素のいくばくかは、私たちの行動である程度変更できます。しかし、それ以外はそうは行きません。例えば、仮に中世の荘園の農奴に生まれたとすると、その暮らしから逃れられる可能性はまずゼロでしょう。あるいは、仮に警察国家で不当に拘束された場合、打てる手はほとんどありません。従って、私たちの自由意志は外部要素の制約を受けますが、ストア派哲学者によると、私たちの内なる要素、そして私たち自身の行動には、制限はないのです。誰であれ、私たちに特定の考えを持つよう強制することはできませんし、特定の行動をとるよう強制することさえできないのです。人生において選択の必要に迫られた時、つまり自分自身の決断の結果を受け入れる場合、物事に同意するか反対するか(または保留するか)は、いつでも私たちの自由であり、つまりは私たちの自由意志によるものなのです。

しかしながら、一部の思想家によれば、自由意志とは制限されているどころか、存在すらしていないと言います。中世のキリスト教教・イスラム教の哲学において、人間が自由意志を持っているかどうかについて大きな論争がありました。中には万物の根源たる神が自由意志を持っているのかどうか、大胆にも問いかける思想家すらありました。

他方、物事は全て全知全能の創造主たる神に依存しているため、人間は完全に神に依存していると述べる人々もいます。さらに、神は人間に正しい道か悪い道かを選ぶ自由を与えているのであって、さもなくば人生は無意味なものになっていたはずだと述べる人もいます。

ルネサンス期には、自由意志の考えが明らかに優勢になっていました。自信と楽観主義が人間の魂に浸透していった結果、人間は自分自身の運命の主人であり、どんなことでも達成することができると信じられていました。それらはみな、この時代の素晴らしい芸術や文化に反映されていました。

数世紀後、より悲観的な哲学が定着しました。デビッド・ヒューム(1711年〜1776年) は、人間は、論理的能力を持っているにも関わらず、完全に自らの感情に服従しており、自分で信じているほど自由ではないと考えていました。人間に関するフロイドの視点にも、同じ考え方を見ることができます。人間の本能的な衝動は、普段は社会的制約にコントロールされているものの、ひとたび監視の目が緩むといつも表面に噴出してくる、という説です。この視点は、第一次世界大戦の大量虐殺によって正しさを証明され、第二次世界大戦の惨禍によって再確認されたように思われます。ひとたび文明化というメッキを失った時、一体いかなる野蛮さが無力な人間を「文明化」してきたというのでしょうか。

では、私たちの自由意志の実態とは一体何なのでしょう。今日では、自由意志が存在しないことを証明したとする科学的実験もあります。しかし、後に誤りであったと証明された科学的主張は数多く存在するということを、私たちは固く心に留めておく必要があるでしょう。従って、私の意見では、哲学的視点からこの問題を眺めれば、より安全であると言えるでしょう。これは最終的な答えになりうるでしょうか? 科学的論争は、大昔の運命論が新しく形を変えて現れてきたものに過ぎません。ダルマとカルマの教えが示すとおり、どちらの立場(運命論と自由意志)も部分的に正しい、というのが本当なのです。カルマの運命論、あるいは偶然(どちらで呼んでも結構です)は存在しますが、今ある状況の中で決定する自由・行動する自由もまた存在するのです。

新プラトン主義の哲学者プロティノス(204年〜270年)によれば、私たちが自由意志の問題に心を奪われるのは「われわれは逆運や免れえない(必然的)事態や、魂を占有する情念の激しい強襲に翻弄されて、これらこそ支配者であると信じてこれらに隷従し、これらが導くところへ運ばれて行くものだから(原注:ヒュームの見解と似ています)、もしやわれわれ自身は無であるのではないか、何ひとつわれわれ次第であるものはないのではないかと疑問をいだくようになったのである(※訳注)」のです。ハムレットの言うとおり「ああ、そこが厄介」なのです。実際、私たちは何ほどの存在なのでしょうか? 私たちは実在しているのでしょうか、あるいは映画「マトリックス」で描かれたような、心のない知性の手になる巧妙なコンピューター上のシミュレーションに過ぎないのでしょうか? プロティノスによれば、この問いに答えるためには、私たちは万物の根源に立ち返らなければなりません。プロティノスは、この根源は理論上、原初の法則、原因のない原因といったものであるはずだと述べています。インドの哲学者が単純に「それ」と呼ぶこの法則、つまり存在でも非存在でもないものは、自由意志を持つのでしょうか? あるいは、この宇宙全体が自動的または偶然に生まれたか、でなければこの法則は、(宇宙がそれ自体の性質に沿って動かずにいられないため)全宇宙を進行させる必要性に「強いられて」いるのでしょうか?

最初の場合には、プロティノスによれば、他の万物と同じく「偶然」も、原初の法則に先立って起こることはなく、原初の法則が出発点となります。2番目の場合には、原初の法則は必然に縛られることはありません。必然を含む全ての法は原初の法則から来ており、他の万物に進化のモデルとされているものが何かに縛られるのはありえないことです。今回のような短い記事でプロティノスの主張を詳しく描写することはできませんが、興味のある方のために、彼の代表作「エネアデス」の中から「一なる者の自由と意志について」と題された章をご紹介します。

プロティノスの哲学において、世界は発散でできていました。一なる者の「自己の力の内」から第二の原理「英知」が生み出され、後者が「魂」を構成しています。魂は、英知(究極的には原初の法則)と性質を共有しています。従って、魂に関与している私たちも、真実の存在に参加していることになります。言い換えれば、プロティノスの先の質問への答えとして、私たち、または少なくとも私たちの一部分は、実在していると言えます。

これがその通りなら、私たちは自由意志を持っていることになります。私たちの中に実在するものの美点によって、私たちはどんな状況下でも自立して行動できるためです。実際的な観点から言うなら、例えば朝、嫌な気分で目覚めたとしましょう。原因は悪い夢、消化不良、横で寝ている人、仕事の失敗などなどでしょうが、ここで自分の意志(つまり自分自身の存在が最も高次元に表れたもの)を鍛え、嫌な気分に負けないと決心することができます。それは、ひいては私たちの人間としての尊厳を脅かす疲弊やその他いかなる要素にも屈しないということなのです。

人生のある部分において、自由意志を信ずることは、偶然や運命論の存在を否定することではありません。知恵に従って行動する方法を知っていれば、この二つの要素は共存できるものなのです。

※訳注:1976年『世界の名著 続2 プロティノス ポルピュリオス プロクロス』(中央公論社)P366より引用。

元記事URL↓
https://library.acropolis.org/does-free-will-exist/

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