「どこを飛んでたって、きみはいちばんのなかのいちばん。
どこに行ったって、きみはトップにおどりでる。

そうならないときをのぞいたら、ってことですけど。
つまり、たまには、そうならないこともあるんです。」
(ドクター・スース著、伊藤比呂美訳『きみの行く道』河出書房新社、1999年より引用)

誰しも、勝つことが好きなものです。負けることが好きな人はいません。

私たちはみな、自分が人生の試練を乗り越えること、あらゆる試合や競争に勝つこと、いちばんのなかのいちばんであることを夢見ます。

そして同時に、私たちが試しに首を突っ込んでみた分野には、自分よりも上手な人が(今も、これから先もずっと)絶対にいるもので、一時的にでも、手が届かないゴール、私たちをぐらつかせる周りの状況があります。

人は敗北の経験を通らずにはいられません。ポジションを与えられないこと、意中の相手に振られること、試験に落第すること、あるいは単に、試合に負けること。

受け入れるか否かに関わらず、敗北は私たちの人生の一部なのです。

哲学者として、私たちは自分にこう問いかけることができます。敗北が人生の一部であるなら、これは悪いものとは限らないのではないか? 敗北から学べるものはあるだろうか? そして、「良く負ける」ことは可能なのか?

私たちの言葉の歴史において、「悪しき敗者」という言い回しが見出されています。敗北に対してまずい礼儀 (grace)で臨む者のことです。

興味深いことに、礼儀 (grace)という言葉は「良き敗者」とも結びつけられています。“A graceful loser” “a gracious loser” という表現です。礼儀 (grace) という言葉は、気品と威厳につながる概念です。礼儀のある人間は困難にもやたらと動揺せず、平静さを保ち、謙虚さを示します。すなわち、良き敗者とは、落ち着きと謙虚さをもって、自らの敗北を気高く受け入れる者のことなのです。

とはいえ私たちは、何かに負けた時には恥ずかしさとストレスを感じてしまいがちです。思わず叫び出して、頭がどうにかなってしまいそうになります。実際には、敗北がもたらす恥ずかしさとストレスは、私たちを負かした人や状況とは無関係なのです。これらは私たちが自分の不完全さや、さらなる鍛錬の必要性を受け入れたくない気持ちの表れです。つまりこれらは、自分が夢見たものへは生涯かけても手が届かないという事実を受け入れたくない気持ちの表れなのです。しかし、その葛藤を手放したとき、エマーソンが述べたように「一瞬一瞬を全うすること、一歩一歩に旅路の終着点を見出すこと、実りある時間を数え切れないほど過ごすこと、それこそが知恵なのだ」ということです。言い換えれば、旅路は目的地よりも大事なのです。

敗北することは、自分の限界に直面することです。一時的にしろ、ずっと続くにしろ、これは謙虚にしてくれる経験であり、私たちに人生の中での現在地を示し、さらなる克己をうながすものです。勝つためには、無数の負けを経ねばならないのです。

負けることは、謙虚になることです。

謙虚さのない敗者は、屈辱のみを得ます。
真に謙虚な敗者は、敬意を知るでしょう。

負け方を知らなければ、勝ち方を知ることもなく、人生の豊穣さを味わうこともないでしょう。

負け方を知るということは、自分自身に勝利するということなのです。

↓元記事
https://library.acropolis.org/the-art-of-losing/

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