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確信と狂信

デリア・スタインベルグ・グスマン著・長谷川涼子訳

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人は、確信と狂信の区別をつけることに関心を抱いてきました。それによって、各自が自分や他人をもっと明確に判断できるからです。確信とは、心理的・知的・道徳的に高度な責任であり、良き理由・証拠・経験・模範・土台に基づいて徐々に納得することから生じるのです。

確信を持った人には、総合的な健全さ、うらやましいほどの自信、自分の来し方行く末に関する知見が見られ、分別ある、釣り合いの取れた活動の助けとなっています。確信は、私たちの内なる能力を恒常的に鍛えること、移ろいやすい意見を確かな判断へ変えることから生じるのです。

確信を持つということは、停滞を恒常化させるということではありません。むしろ、確信を持った人は考えのリズムに従って生きます。考えにはエネルギーと、自然な進歩のリズムを備えているからです。確信を持った人は寛容です。不動の考えを持っていますが、他者が自分の居場所を持つことを認めます。異なる考えを持つ人を見下す代わりに、耳を傾ける意思を示します。確信を持った人には、積極的な寛容さがあります。つまり、他者の意見を聞き、自分の意見を表明・防衛しながら、誰を傷つけも攻撃もしません。確信を持った人は自分自身と他者のための居場所の作り方を知っています。居場所を開き、生み出し、認識するのです。自らの周りの他者の居場所を荒らさず、攻撃せず、みだりに恐れず、不当に扱いません。確信を持った人は、自分の意志を無理矢理押し付けたり、自分を完璧中の完璧などと考えたりしません。その確信は、それを持つ人を前進させ、日々少しずつ成長する助けとなるのです。

他方、狂信的な人は、考えるということをほとんど、あるいは全くしません。狂信的な人は、他人から良いと言われた物を受け入れ、高度な感覚の代わりに操縦不能の情熱を育て、それによって無意識の行動へ引きずられてゆきますが、本人はそれを検証できないため後悔すらしません。狂信的な人は一つの意見しか知りません。むしろ、一つの意見しか受け入れない(それも「自分の確信を育てることで受け入れる」という段階にすら達していない)と言うべきでしょう。

必然、狂信的な人は不寛容です。狂信的な人は、異なる感情や意見を持つ人の存在さえ受け入れません。そういう理由で、狂信的な人は何としてでも彼らを滅ぼそうと試み、そうした態度の恐ろしい例が死や拷問なのです。狂信的な人は耳を傾けません。会話に参加することができないのです。自分自身を麻痺させるために自分の主張を叫ぶばかりで、他の意見の入る余地を与えません。自分の意見は山のように持っており、それ以外のものは卑しいか、存在しないか、抹殺すべきものというわけです。狂信こそ、圧政のおおもとなのです。

私たちが多くの――多すぎるほどの――狂信者と共に生きねばならないのは事実です。しかし、世を覆う不合理が、人類の利益のためになされた気高く生産的な仕事をどれだけ圧迫しようと、この異常な行いを無意識のうちに真似るという罠に陥るべきではありません。私たちは自らの道徳の品位を保ち、正真正銘の確信を備えた完全な人間へと自らを変えてゆかねばなりません。

※デリア・スタインベルグ・グスマンは、国際団体ニューアクロポリスの名誉会長です。

元記事URL↓
https://library.acropolis.org/conviction-and-fanaticism/

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