古代の伝統のほとんどは、特定のパターン化した神話を共有しているようです。つまり、英雄が危機や死に直面し、困難を乗り越えた末に偉業を成し遂げて帰還する、長く辛い旅にまつわるものです。古代エジプトやギリシャやローマその他において、英雄がこうした旅をする話が見られ、いくばくかは神格化されています。ヘラクレスやアルジュナはそうした例と言えます。彼らは大いなる挑戦を通して自らの水準を高め、自らの真の可能性を開花させたのです。こうした英雄たちのように、私たちも自らの可能性を見出す旅の途上にあると言えるでしょう。この旅の中に、私たちの人生の意味と目的についての問いへの答えが眠っているのでしょう。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、人間の存在についての普遍的な問いの答えを見つける旅に出た王子さまの、美しく胸を揺さぶる物語です。サン=テグジュペリの本に含まれる深遠な考えは、読者を同じような旅路へといざなうのです。

サン=テグジュペリ曰く、
「私はこの通りの私であり、この通りであることが必要だ」
「最も肝心なのは、私たちみんなが楽しむことのできる単純な喜びがとても豊富にあるということだ……幸福は私たちを取り巻くモノの中には存在しない。それを見つけるためには、目を開いておくだけでいい」

こういった考えを読み解くには、「人間として真に成長するために、自らの内奥深く探究の旅をせねばならない」ということについて考えてみる必要があります。そのようにしてから初めて、私たちはあらゆる問いの最高点である「私は誰なのか」の答えを見いだすのです。真の「私」とは、習慣や外部の状況といった普段の私たちのアイデンティティを定義づけるものを超越した存在と思われます。自分が誰かを知るということは、永遠の側面、自分の真の可能性、そして恐らく、本当の幸福と喜びを見つけるということなのです。

しかし、この険しく困難な道のりへ、どのように踏み出せばよいのでしょう?

『きちょうめんにやればいいことだよ。朝のおけしょうがすんだら、念入りに、星のおけしょうをしなくちゃいけない』

私たちの成長は、世界と切り離されたばらばらの個人で成り立つものではありません。私たちは、この星すなわち「今・ここ」と繋がり、人間関係・仕事・社会的責務などの中で必然的に課せられる生まれながらの挑戦と繋がっているのです。人生に取り組むためには、修練と責任をもって活動せねばなりません。こうした挑戦を「世話してやる」ことこそ、私たちが自らの可能性(内なる王子さま)に一歩近づくべく学ぼうとしている物事が姿を表す機会なのだと、サン=テグジュペリは理解していました。

すぐに、王子さまはキツネと出会います。王子さまは尋ねます。『〈飼いならす〉って、それ、なんのことだい?』キツネは答えます。『〈仲よくなる〉っていうことさ』『なんなら……おれと仲よくしておくれよ』

サン=テグジュペリは隠喩を用いて、人間の動物的な欲求や傾向を「飼いならす」必要性をほのめかしています。そうやって、私たちは「仲よく」なることができるのです。仲よくなると、私たちはお互いに求め合い、自らの個人的で動物的な欲求から解放されます。そうすることで、私たちは自分の内面をすっかり探究し、自分の主観からすっかり自由になって、誰か、あるいは何かと結びつく責任を果たすのです。これは、古代エジプトのネテル、つまり私たちの全ての活動に意味を見出すことと似ています。野菜を切るなどの単純なことから、レポートを書くなどの複雑なことまで、どんな物事にも偶然はありません。意味を見出すためには、今行っていることへの不断の集中が必要なのです。

『おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子と、べつに変わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは、十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……』と、キツネがいいました。

ここでキツネは自分自身を例として、なぜ王子さまの星のバラが王子さまにとってかけがえのないものなのかを、読者に繰り返してみせます。王子さまは、たくさんのバラを見て初めて気づきます。どのバラもみな同じような花に見えるのに、王子さまのバラは最も美しいのです。自分でそのバラのお世話をしてきたという事実が、王子さまにとってそのバラを特別な存在にし、特別に意味のある関係を作り上げたのです。

これは、人あるいは原則に対する私たちの関係性にも当てはまります。不安定さの上に成り立つ関係性は壊れやすいものですが、恐れのない無条件の愛の上に成り立つならば、強固で意味のあるものとなるでしょう。同じように、自分の人生との関係性もまた、自分次第です。もし自分に恐怖があれば、人生においても恐怖と関わらざるを得ない環境がもたらされ、その恐怖から来る学びと成長の機会が多く与えられるでしょう。しかし、勇気ある挑戦に赴くことは可能でしょうか? または、自分をぐらつかせるような恐怖に満ちた状況から逃げ出すでしょうか? 仲よくなること、全ての行動に意味と正当性を与えることには努力が必要です。しかしそれは、私たちの内省と熟考を助け、自分自身を知り、自らの秘められた能力を少しずつ見出すための旅の始まりとなるのです。

『さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ』

肝心なことはいつでも目に見えません。五感で感じることもできません。それを経験し、その中で生きることが必要なのです。

人生と呼ばれるこの奇跡は一体何なのでしょう? 私たちの中の何かにこれほど深く、切実に語りかける大自然は、一体何を求めているのでしょう? 沈みゆく陽が薄暮の空を紫色と桃色に染めるとき、野原いちめん咲き乱れる花々が頭を天に向けて風にそよいでいるとき、枝もたわわな果物が日ごとに実ってゆくとき……私たちの心をとらえてやまない、こうした謎めいたものは、一体何なのでしょう? このような謎めいたものは、私たちの主観的感覚を超えたところにあります。私たちの知識や意見では捉えることができないものなのです。これは私たちがおそらく直感的に掴まねばならない、宇宙の中で編まれた強くかつ繊細な生命の力でしょう。自然は一連の法則から成っており、私たちも自然の一部である以上、その法則に従っているのです。

『砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……』と、王子さまがいいました。

古代ギリシャ人はヌースという概念を持っており、バラモンの伝統にはアルパの教えがありました。東西に分かれ、地理的にも文化的にも異なる二つの哲学学校が同じ概念を教えているのであれば、これは普遍的な真実の話であると言えるでしょう。物質の次元を超えた領域である真実・美・正義の原型、つまりあらゆる物質世界の源の存在についての話です。しかし、この領域にについて、私たち一人一人はどのように探究を始めればいいのでしょうか?

サン=テグジュペリ曰く、「人が、積み重ねた石を見つめて大聖堂を思い描いた瞬間、石はただの石ではなくなる」

私たちを自分自身よりも優れた何かと結びつけるものは、自分の想像力です。想像し、それに沿って動くとき、私たちは抽象的で実態のない考えに形を与えることになります。想像力とは、私たちの中にある目に見えない能力に触れ、本質を見るための道具です。私たちの秘められた能力に触れ、自分自身の根源を覗き見る助けとなるものです。しかし、想像力と不可視の領域の間を埋めるには、考えを実現させるための意志と行動力が必要になります。

道を選ぶのはいつも自分自身です。生きるべきか死ぬべきか? 努力が必要であり、限界への挑戦を要求される、この内なる探究の旅へ船出すべきか? それとも温室で安穏としているべきか? アルジュナのように敢然と戦いへ赴くべきか、成長の機会としての人生の戦いから身を引くべきか? マトリックスのネオのように赤い丸薬を選ぶべきか、それとも青い丸薬を選んで全てに目をつぶるべきか?

私たちの能力を発揮するには、勇敢な挑戦が必要です。最も重要なものを探すことに真正面から取り組み、自分の挑戦を義務と捉えず、真実を求め、自らの内面と宇宙との両方にある不可視のものに繋がるのを切望する機会と捉えることです。

 王子さまは、ぼくの手をとりましたが、また、心配でたまらなさそうにいいました。
『こないほうがよかったのに。それじゃつらい思いをするよ。ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとじゃないんだ……』
『ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持ってけないの。重すぎるんだもの』

私たちは自然から分かれてはいません。私たちは自然の中の不可欠の要素なのです。そして、木々が冬ごとに葉を落として春にまた蘇るように、私たちも自らのサイクル、生と死のサイクルを持っているのです。恐らく私たちも、自らの旅を続けてゆくためには再生が必要であり、古い身体を脱ぎ捨ててゆくのでしょう。たった一つの違いといえば、人間の運命は永遠に不可視の原型の世界で一人一人を待ち受けているのだということです。そして、たとえ行く手が見えなくとも、前に進むかぎり栄光はあるのです。

 『ぼくは、月の光で、王子さまの青白い顔を見ていました。ふさいでいる目を見ていました。ふさふさした髪の毛が、風にふるえているのを見ていました。そして、いま、こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ、一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ……と思っていました』

※訳注: 二重鉤括弧内は全て下記からの引用
『星の王子さま』サン=テグジュペリ作、内藤濯訳 岩波書店 1953年


元記事URL↓
https://library.acropolis.org/the-little-prince-a-journey-inwards/

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