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答えとしての宇宙

ホルヘ・アンヘル・リヴラガ著・長谷川涼子訳

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星や惑星、動物、空、地球、水、あるいは雪の話を私たちはよくしますが、それでいながら宇宙という言葉の本当の感覚や意味を忘れてしまっています。人間は、自分自身もその一部たる自然の全てについて、自らに問いかけますが、自然の表している中心的な概念については忘れてしまいがちです。

「宇宙」とは、一つの方向に進むものを表します。したがって、私たちが見出さねばならないものは、それが向かう場所です。これは恐らく、人類が行なってきた最初の研究方法の一つでしょう。古代の文明は全て、自らの宗教や形而上学や哲学を通して、宇宙がどこへ、なぜ行くのかを自らに問いかけてきました。しかし、特にデカルト主義以降の新しい物質主義的な物の見方は、人間に新たな視点をもたらし、人間は宇宙の性質、つまり大きさや形や重さを調査するようになったのです。

人間は宇宙を知っていると主張します。なぜなら星々に名を与え、地球から月までの距離を測ったからです。あるいは、化学物質の一覧や物理的な力の性質を知っているからです。しかし、そういった専門知識は、各分野内では専門性を発揮するにしても、それぞれの分野同士はいっそう引き離されてしまうのです。

例えば鉱物学においては、それぞれの石の異なった性質や、地表に変化をもたらす造山運動について教わることはありますが、物質の本質的な意味については教わりません。

何かの物を持ち上げて、不意に落としたとしましょう。それが落ちて、いつも一番低い場所に向かうのが見られるでしょう。この小さな物と私たちの立っている大きな地球の間には、引きつける自然の力がいつも働いています。この力は休むことを知りません。

であれば、鉱物界の自然の性質から何を引き出せばいいのでしょうか? 運命を探究する力である粘り強さです。そして、この運命の探究を石と共有しているのは、どのような人々と言えるでしょうか? 一般的に、私たちは困難に遭った時、しばらくは闘いますが、困難がどうしても立ちはだかる場合、あきらめてしまいます。自然の物質である石は、たとえば時を越える粘り強さ、自らの最終目的地を探す粘り強さを持っています。

子どもたちはまた別の性質として、植物の光合成の過程を習いますが、言うまでもなく、個々の光吸収・エネルギー変換現象の話を超えて、植物は忍耐・成長の方法を知る能力を持っています。雪の下の冬の土に埋まった小さな種は、春の訪れを辛抱強く待っています。その時が来れば、小さな種は芽を吹き、空気と日光を探します。これもまた、粘り強さ、まっすぐ伸びることを教えてくれますし、哲学的視点から見れば、私たちは物事の動きの究極の意味に興味を持っているのです。

また、水というものもあります。どこに注がれても、水は海を目指して流れます。海では、水は蒸発して再び昇ってゆき、凝縮して、再び大きなサイクルの一部になります。宇宙には目的があるのです。

もちろん、ここ数世紀における新しい傾向の中で、物質や生産・消費の心理によって切り離され、人類は、自然の要素とその解読方法を忘れてしまいました。古代の人々は恐らく、地球と月の距離などについては、それほど厳密であろうとしませんでした。しかし、宇宙の中の月の意味合いについては、理解しようと努めました。古代の天体の科学を通して、彼らは自然現象を解釈し、自らが人間という名の現象とどんな道で繋がっているかを知ろうとしたのです。そして、これを通して古代人は、知性ある存在に寄り添われている感覚、自らが知性ある存在になる感覚を身につけたのです。

私たちの現在の問題は、宇宙の真ん中にいるのにあらゆるものから孤立していることです。言い換えれば、人工物が身近に多すぎて、私たちは物事の中に目的を見出す能力を失ってしまっています。このことの最も劇的な点を言えば、私たちは自分自身の人生における目的を見出す能力を失ってしまったのです。私たちはただ瞬間瞬間を生きているに過ぎず、代々受け継いできた根本も人生の目的も失ってしまいました。それによって、私たちは時間に支配された瞬間的存在になり、自分が偶然に生まれた存在であっていつでも消えてしまうのだと確信するようになりました。そして、この無意識下の考えは私たちを圧倒し、ダメージを与えているのです。自然を解釈する代わりに、私たちは完全に人工的な様々の物を中間に作り出すことに力を注いでいるのです。

木々の葉は、その裏側に呼吸のための気孔を持っていますが、なぜ表側でないのでしょう? 単純に、ほこりで塞がれないためです。裏側にあることで、葉は守られて、呼吸ができるのです。これは偶然でしょうか?

チョウの羽が花や葉の色に溶け込む色をしていて、鳥に見つからないのは偶然でしょうか? フクロウの翼の先端がなめらかで、夜の飛行中でも全く音を立てることなくウサギを急襲できるのは偶然でしょうか? げっ歯類の耳が後ろに向いていて、背後から追ってくる捕食者のどんな小さな音でも捉えられるのは偶然でしょうか? 白色光が分解されるスペクトルの色数は偶然でしょうか? 音階の配列の方法もまた偶然でしょうか?

宇宙全体が、一つに統合するよう調和されているのは明らかです。万物はピラミッド状の階層しており、その中の物は、多種多様であるにも関わらず、みな一つの目的を求めています。全ては一つの方角を目指し、一つの知性によって統治されているのです。

第二次大戦中の飛行士たちは、時おり先頭を入れ替えながらV字の編成で飛ぶのが良いと理解していました。この方法によって編成全体の飛行速度が増すことは証明済みでした。アヒルやガンは群れ全体が大きなV字の状態で飛行しており、先頭は一番強い者で、他の者はその一羽が後ろへ生み出す空気の流れを利用することができるのです。

こうしたことはみな、偶然であるとは考えられません。これらを人類が理解するには何世紀もかかりました。自然がどのようにデザインされているかについての例は数多く挙げられます。こうした出来事がみな単なる偶然とは片付けられず、むしろ、宇宙の知性が全てを計画していると考えるべきです。そして、この宇宙の知性を受け入れると、私たちは自分に「なぜ」「何の目的で」と問いかけることになるでしょう。全てが何の理由もなく計画されているとは考えられません。何かの目的のためにデザインされたと考えた方が論理的に筋が通るでしょう。そして、宇宙がデザインされたものであるなら、宇宙がどんな答えを与えてくれるのか、何の目的でデザインされたのか、我々はどこへ向かっているのか、我々はどこから来てどこへ行くのか、探究してみるのは良いことでしょう。

七つの原則、あるいは七つの基本的な法というものがあります。宇宙全体の七つの区分に従ったものです。

1. 第1原則は統一性の原則で、全ての自然の原則のうち最も高位のものです。自然は全てが調和しています。つまり自然は生きた統一体であり、そこから外れた物は何もありません。生きている物は他の何も破壊せずに、全ての物を生かします。草地でシカを追うオオカミは、最も若い者は狙わず、年老いた者、病気の者、群れの他のメンバーに病気を感染させそうな者を狙います。つまり、私たちの目には破壊、あるいは残酷に見える行動でも、種を永続させるための行為なのです。

自然の中には疑う余地がなく、反対する存在もありません。あらゆる物が完璧な形をとり、ひとつの方向へ向かっているのです。

2. 第2原則は輝きに関するものです。自然の中のものは、身体的な輝き・精神的な輝きを問わず全てこの原則を持っています。現実に存在するものでも、私たちがそれを識別するためには、知的もしくは精神的な輝きが必要です。私たちはよく「この世に真実は存在しない」「当てになるものは何もない」「私たちは孤独だ」という言い方をしますが、これは私たちが暗闇の中におり、輝きの原則を見出す必要があるからです。

3. 第2原則の結果として第3の原則、つまり識別の原則がもたらされます。自然の中の万物は識別されます。完全に平等あるいは同一の物は二つと存在しません。海辺で踏む砂の粒ですら例外でなく、全て同じに見えても同じではないのです。拡大鏡で注意深く見れば、一粒ごとの小さな違い、小さな特徴が分かるでしょう。従って、同じとか平等という単語を用いるときは注意が必要です。同じようなものは存在しますが、完全に同じものは存在しません。似ているものは存在しますが、全く同じものは存在しません。また、このことは分裂や分断にはつながりません。人間を破壊するものではなく、豊かにするものであり、同じ色調を持つが決して同一の色でない様々の色からなるモザイクのようなものです。平等の概念は人間による発明であり、自然の中に平等は存在しないのです。

4. 第4の原則は組織の原則です。物事は組織されます。木を見てみると、堅い幹は地上にそびえ、鳥の巣のある枝のしげった梢を支えています。しかし、地下深く枝分かれして木の全体を支える対極の梢に、私たちは目を向けません。こちらには鳥はいませんが、ミミズや昆虫がおり、あらゆるものを養っています。言い換えれば、全てが完璧に連携されており、全てが一つ一つ互いに支え合い協力するよう設計されているのです。そして、私たち人間がおかしやすい過ちは、組織ができないことが原因となるのです。

組織とは画一化でも統制でもありません。誰かが他の誰かに押し付けるものではなく、力を貸すことなのです。二本の手は逆向きですが、何かを持ち上げるためにお互い組織することができます。もし手が二本とも同じ向きなら、何を持ち上げるにも苦労するでしょう。つまり、自分とは相容れない物事に対してさえ、組織の原則を認識することはとても重要です。この原則のおかげで、私たちは一人ひとりの個性を大切にしながら一緒に働くことができるのです。これは、今この場で私たちの生活に取り入れるべきものなのです。

5. 第5の原則は、因果関係の原則です。あらゆる物事は、後に続く何かの原因であり、先行した何かの結果です。私たちはみな何かに由来しており、何かへ繋がっていきます。いつの時点の何であっても、たとえ命がないと思われる物であっても、それは別の何かの原因であり、何かの結果なのです。何かの原因でしかないもの、あるいは結果でしかないものは存在せず、原因と結果は相互に関係しています。昼があって夜が生じ、夜があって昼が生じるのです。

6. 第6の原則は生命力の原則であり、万物は生きているということを教えてくれます。文字通り、万物です。19世紀まで、そして20世紀前半には、人々は生き物と命のないものについて話していました。その名残りで、今日でも私たちはそれを続けています。つまり、何かが動いたり、飛んだり、伸びたりしたとき、それを生きていると表現するのです。天地開闢以来、万物は動いている時にだけ生きているというわけではなく、抵抗した時にも生きているのです。目に見えなくとも、私たちの両手や骨を形成する分子や原子は大気中を飛び回り、万物は常に活動の中にあるのです。万物には生命力が染み込んでいます。これはサンスクリット語で「プラナ」と呼ばれ、あらゆる物の中に入り込み、決して止まることのない命を意味します。つまり、私たちが「死んでいる」と称する物でも死んでおらず、単に状態や形や在り方が変わっただけなのです。

7. 最後の原則は、周期の原則です。私たちは生まれた時から、自然の中で夜と昼、夏と冬、その他逆の性質の物が互いに入れ替わる様子が数多く起こるのを知っています。しかし、プラトンを読むか、誰かに教わるか、自分で意識するまでは、私たちは自分たちもまた周期の中にあるとは気づきません。こうしたサイクルの中には、私たちが人の一生と呼ぶ大きなサイクルも含まれます。しかし、なぜそこで止まるのでしょうか? 人の一生は大きなサイクルの中のほんの一日に過ぎないとなぜ気づかないのでしょうか? すなわち、肉体の人生の後には夢にも似た魂の人生があり、その後に私たちはまた肉体の人生と魂の人生を送るのです。

サイクルの法則は万物に及び、決して止まることはなく、全ての物は流転します。惑星は空を周回し、小さな粒も原子の中を飛び回っているのです。

この周期が生命を、継続し脈動する存在たらしめるのです。私たちは、容易に破壊されないものを自然から取り入れる努力をせねばなりません。肉体面だけでなく他の面においても、何かに気を配らねばなりません。なぜかといえば、日々心理的な面において、どの範囲まで気を配っているでしょうか? 自分の心に、魂にどこまで栄養を与えているでしょうか? 私たちは、自分の夢に気を配る必要があります。私たちは、物質面においては、例えば水差しや車が壊れないよう気配りしますが、夢や希望、努力についてはどうでしょうか? 自分の水晶の鳥のような夢が壊れたら一体どうなるでしょうか? 鳥は粉々に砕け、私たちの手を傷つけるのです。

私たちは、自らの壊れた夢を粉々に粉砕し、そして、その夢のガラスの破片で新しい鳥を作り上げる勇気を持たねばなりません。今こそ、カメやヘビのように地上を這うだけでなく、翼の力で空を飛ぶことを学ぶ時であると自覚するのです。

哲学は、ただの思索ではありません。隅っこに腰を下ろして過ぎゆく人生を眺めるものではなく、不幸と退却にまつわる分野でもありません。哲学とは、人生で力強い姿勢をとるためのもの、物事の魂を理解するためのもの、内なる恐怖を乗り越えるためのもの、死を乗り越えるためのもの、他者の奥底と繋がることを可能にするためのものなのです。なぜなら、私たちはお互いを見ることができないためです。人間は死んだら目に見えない世界へ行くと言われることがありますが、人間はいつも目に見えないものです。人間は、自分自身のしていること、自分自身の身体、自分自身の言葉、自分自身の行動の後ろに隠れています。人間とは大いなる問い、大いなる謎なのです。

答えは、私たちの住む宇宙そのものにあります。答えは、歴史の壁、そして私たちを取り巻く宇宙の壁に書かれています。私たちは、その読み方を学ぶだけでよいのです。これは自然なふるまいであり、いかなる信条や声明にも逆らうものではありません。これは自然へ帰ることなのです。

私たちには識別力がありますが、多くの面でそれが欠けています。時々動かなくなる自動車を欲しがる人などいるでしょうか? いませんね。なのに私たちは、時々まずくなるアイディアを受け入れ、時々当てはまらなくなる原理を受け入れ、時々誠実でなくなることを受け入れているのです。私たちは、肉体的レベルで使っている良識へ立ち戻る必要があります。魂の面においては、私たち自身からの、また私たちの周りの世界からの要求へ立ち戻る必要があります。それは、私たちが宇宙を完全に理解出来るようになるための究極の価値であり、理解も、制御も、吸収もたやすいものです。

私たちには、既得権益からくる悪習から距離を置いた新しい科学、暴力の臭いのしない科学が必要です。私たちには、苦痛でなく真の探究を土台とした、もう一度私たちを美と結びつけてくれる芸術が必要です。私たちには、争いや偽りの共存でなく、調和と向上に基いた共存へ人々を導いてくれる政治が必要です。つまり、私たちには、新しい世界が必要なのです。しかし、この世界はすでに存在しています。それはこの宇宙そのものであり、これこそが自然です。私たちがなすべき唯一のことは、運命が私たちに用意したこの時を一生懸命に生きることです。宇宙の錠前に差し込まれた鍵となり、歴史の扉を開けるのです。次の次元へ通り抜け、私たちを待っている新たな世界へ足を踏み入れるのです。その世界は単なる新しい世界ではなく、より良い世界です。

ホルヘ・アンヘル・リヴラガ: 国際NPO団体ニューアクロポリス創立者


元記事URL↓
https://library.acropolis.org/the-universe-as-an-answer/

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