‘chivalry’(騎士道) という単語は、「騎士」あるいは「騎手」を意味するフランス語の ‘chevalier’ から来ています。騎士道の象徴では、馬は身体を表し、エネルギーや感情ともつながりを持ちます。他方、乗り手は人間の高位の自我、つまり私たちの中の最良で最も尊い部分を表します。騎士は完璧な存在ではなく、完璧に至る途上にいるのです。従って、あらゆる騎士たちの挑戦は続きます。時には、特に聖杯探索の段階では、彼らは失敗することもあります。そして、別のチャンスを得て、ある程度、または完全に成功することもあるのです。哲学の奥義という観点から見れば、人間は完全な存在になり得ます。実際、人間としての私たちの宿命は、自らの神性の部分を築き上げてゆくことです。これはみな、奥義を扱う傑出した芸術、つまり錬金術の中で、鉛の人間(現世の存在であり、重く不透明)から黄金の人間(輝いており、腐食せず、純粋で、太陽のように無限に分け与える)への変化として象徴化されています。従って、騎士道物語の中に錬金術の痕跡が多く見出せることは、何ら不思議はありません。J.E. Cirlotが言うように、「従って、騎士道精神とは、普通の人間(馬に乗っていない)から霊的人間へ変化するための優れた教育とみなすことができる」のです。

騎士道の特徴は高貴さです。これは血筋のことではなく、人格のことです。そして、人格の高貴さとは、つまり基本的欲求に振り回されることなく、自らの低い性質を高い性質で制御し、善良のものを目指すこと、でしょうか。このように捉えれば、これは単に中世ヨーロッパの産物というだけでなく、普遍的な道徳的視点なのです。しかし、騎士道は歴史的側面も神話学的側面もある、中世的な現象とみなされています。

歴史的には、騎士道の概念はローマ帝国の滅亡後、野蛮さの増す暗黒時代の中で起こりました。これはアーサー王と円卓の騎士たちの物語の舞台背景であり、ある程度の歴史的事実を下敷きにしていることが広く認められています。ラモン・リュイは、古典的著作『騎士道論』で以下のように述べています。「かつて世界には、慈善も、忠誠も、正義も、真実も存在しなかった。憎しみ、裏切り、不公正、虚偽がはびこった……(その時)正義はその名誉を取り戻そうとした」つまり騎士道は、不公平で野蛮な世界で正義・調和・真実を修復するためのものだったのです。しかし、民間における慈善の復興のピークは12世紀でした。ほとんどの研究者が認めるところでは、旧態依然としたヨーロッパ人が十字軍を通して遭遇した、全盛期のイスラム文明の影響によるものだったのです。

この頃から、古い資料を下敷きに文学作品となった「アーサー王伝説」の物語が広く見直され、人気を得るようになりました。多くは魔法の冒険譚であり、典型的な騎士が試練と困難に遭い、信じられない苦境を乗り越えるものです。

一つの例が、ランスロット卿と呪われた城「悲しみの護り」の物語です。多くの騎士がこの城の呪いを解こうと試みましたが、成功した者はいませんでした。この試練は、おのおの十人の騎士に護られた三つの門を突破することでした。ランスロット(この物語では白の騎士の名で知られています)は、湖の乙女が手当てに遣わした乙女の助けによって、ようやく成功しました。彼女はランスロットに三つの盾を与えましたが、これは危機の時に彼の力をそれぞれ二倍、三倍、四倍にするものでした。

こうした物語あるいは神話では、通常、乙女は魂の中の何らか高貴な要素、必要に応じて助けとなる魂の要素を表しています。魂の要素の純粋さが、乙女によって表現されているのです。

ここで、奇妙で謎めいた存在が現れます。「悲しみの護り」城の支配者、「銅の騎士」ブランディン です。彼は壁のてっぺんに姿を現し、ランスロットの成功に気を取られて身を乗り出しすぎ、自らの配下の騎士たちの頭上に落下して一人を死なせてしまいます。なぜ銅なのでしょうか? 鉱物はそれぞれ、錬金術の過程で役割を持っており、惑星のひとつひとつと対応しています。銅の場合は金星です。錬金術の象徴的意味はとても複雑であり、ここで全てを解読することはしませんが、この「銅の騎士」は、錬金術と関連がないとは考えられません。

最終的に、ランスロットは勝利し、敗れた騎士たちの眠る共同墓地に案内されました。そして、一枚の金属板(ここでも金属です!)を示されます。それによって、彼は本当の父親の名、つまり自らの本当の出自を見出します。言い換えれば、これらの試練の終わりに、私たちは本当の自分が誰なのか――恐らく、私たちの多くが答えを見出したがるであろう問い――を見出すのです。

アーサー王伝説は、こうした不思議な物語の宝庫です。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによるパーシヴァルの物語では、主人公が城の一室にいると気づいたとき、床が回転を始めます。回転はどんどん速くなり、主人公は壁に叩きつけられないよう必死にしがみついていなければならないまでになります。志願者の通過儀礼をテーマにした物語の中では、回転する床の試練は珍しいものではありません。ランスロットの別の物語では、彼は深淵にかかる「剣の橋」を渡らねばならず、その向こう側には二頭のライオンが彼をむさぼり喰おうと待ち構えていました。この時、恋人グィネヴィア(彼の神秘的な命の象徴?)に対する愛が、彼にこの苦痛の橋を渡る勇気を与えました。しかし、彼が戦いを覚悟してこの苦痛に満ちた橋を渡り終えたとき、ライオンたちは消え去っていました。ライオンたちはランスロットの勇気を試す幻影にすぎなかったのです。私たちの恐怖のうち、自らの心が作り出した幻影のなんと多いことでしょうか。

騎士道にまつわる興味深いイメージはまだまだあります。マネッセ写本には、先ほどとは反対のイメージが出てきます。騎乗した騎士の頭上に現れる、一本の矢と燃え盛る松明を手にした乙女の姿です。この乙女はヴィーナス(錬金術の文書に「神秘の火の矢」として登場することがあります)との大きな類似が見られ、騎士に勇気をもたらす存在です。騎士の馬の下は水の世界(内面もしくは霊の象徴?)で、二つの悪魔的な存在(あるいは一人の悪魔と一人の人間)が戦っています。悪魔は、盾で身を守る人間(あるいはもう一人の悪魔)を矢で狙っています。これは、騎士道が外的世界の戦いや冒険の話にとどまらず、さらに重要なことには、人間の内面における高位の自己と低位の自己との闘いであるということを描写しています。

ラモン・リュイは、騎士の美徳(内なる克服)を肉体的な技量より上位に位置付けています。「つまり、騎士のうち、身体を重んじ騎士道にふさわしい技を磨きながら、魂を重んじず騎士道にふさわしい美徳を磨かない者は、騎士道に親しんではいない」

色による象徴も、錬金術にまつわって様々に存在します。マロリーの『アーサー王の死』では、トリスタン卿が日によって異なる色(一般的には緑、黒、赤の順番)のいでたちで馬上試合を戦っています。これは単に「雰囲気のため」のみならず、錬金術の作用の段階と関わっていることが、複数の著者によって指摘されています。恐らく、緑色は緑のライオンで表される「万能溶媒」、黒は「闇の中の萌芽」に関わる「黒化」プロセス、赤は最終プロセスである「神と人の合一」に関わる「赤化」であると考えられます。

そして、錬金術のゴールとは何でしょうか? あらゆる力の結晶の象徴、自分自身と自然を超えた技能である「賢者の石」です。これは癒しの力を持ち、あらゆるものを生み、命を延ばすことすらできるものです。これを踏まえると、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ の『パルツィファル』が聖杯を盃でなく石として描いているのは興味深いことです。聖杯は満杯の大釜のようで、もし正しく問いかければ、王(自分自身)と王国(世界)を癒す無限の恵みをもたらす力があるのです。

したがって、聖杯のイメージを持つことは、賢者の石に至ることと同じ意味なのです。そして、ゴールへ至るためには、騎士はガラハッド卿のように完全に純粋でなければなりません。哲学の奥義から見れば、これは不可能なことではありません。騎士の挑戦と冒険に象徴された、純化へ至る長い苦労が実ったものなのです。

元記事URL:
https://library.acropolis.org/the-esoteric-aspect-of-chivalry/

生きた哲学.png
哲学カフェ.png
online event.png