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分断主義の毒

デリア・スタインベルグ・グスマン著・長谷川涼子訳

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数年前、私たちが記事や講義の中で「新しい中世の時代が来つつある」という話をしていた頃、この予測は大げさであり、ほとんど宿命論的に聞こえたものです。

その時、私たちはこうも言いました。歴史のサイクルの繰り返しは、必ずしも悲劇や退行に至るわけではなく、自然な生命の流れとして、少しずつ螺旋を描くように、同じところを通るように見えますが進化のレベルを上げていくのです。

大げさな運命論はさておき、今日起きている出来事はこういった言葉を裏付けています。大勢の著者や学者が、現代に見られる中世的現象について語るようになっています。これはつまり、現代は、我々の歴史の中の直近1〜2世紀を経て、来たるべき「ルネサンス」を控えた踊り場期・回復期であるという意味です。

私たちの文明において、中間のサイクルの存在を示す特徴は様々にあります。しかし中でも、現代において特に関連度が高く、私たちがその重大性を認識できなかった場合、深刻な事態を引き起こしかねないものがあります。すなわち、分断主義のことです。

政治的な意味合いを超えて(政治的な意味合いも含みますが)、分断主義とは、現在までに生まれた何もかもが溶け込んだ風潮となって、あらゆる人間の表現に侵入する力のことです。分断主義は、人々を自分たちだけの現実の中に閉じ込めることで、あるグループを別のグループと対立させ、個人主義を過激化させます。

「自由」「独立」「自治」「表現の自由」「自己決定」その他もろもろの用語は、もはや分断主義の同義語でしかありません。今日、国は県や地方で分断され、それぞれが最大限の独自性と自給自足を主張しています。しかしこのプロセスが地方や県の分断で進み、考えうる限りの違いや差でもって、さらに小さく分かれます。次の段階では、街と街が分断し、ついには家族同士の間にさえ世代間のひび割れを意識せざるを得なくなるでしょう。

では、このプロセスの最高到達点、つまり個人が究極の単位として他の全てから「分断」されたとき、いったい何が起こるのでしょう? 私たちは中世のまっただ中にいます。どんなささいな困難にさえ誰もが神経を尖らせねばならず、集団作業や協力といった文明社会の財産はみな消え失せてしまうでしょう。

道が寸断され、燃料もエネルギーも存在しない、コミュニケーションのない世界は、恐らく現代では想像しづらいかもしれません。田舎の大きな家(※訳注:ヨーロッパの城のような、立てこもるための建物のこと)や、住むのに適さなくなって打ち捨てられた巨大な都市など、今ほとんどあり得ないと思われるでしょう……ですが、分断が進むに従って、こうした傾向が浮かび上がってくるのです。

しかしながら、これまで存在した数多くの中世、そしてそれを乗り越えた人々のように、私たちもまた、待ち受ける奇妙な時代から生まれ変わらねばなりません。が、再生には気づきが必要です。現在の過ちを将来の成功へと変えてゆくため、その過ちを認識できるしっかりしたマインドが必要となります。

人間は社会的な存在です。家族、村や街、そして地球も、私たちの誕生を見守り、消し去ることのできない愛着を人間にもたらしてきました。これらのつながりは、ただ健康的に強くしなければなりません。文明という木から寄生生物を取り去ってやりさえすれば、この新しい中世は一瞬の夢のように過ぎ去り、つかの間の休息の後、力強く輝かしい新世界が再び幕を開けるでしょう。

新しい、したがってより良い世界が。


元記事URL↓
https://library.acropolis.org/the-cancer-of-separatism/

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