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恐怖と勇気

デリア・スタインベルグ・グスマン著・長谷川涼子訳

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恐怖が知恵への道における最大の敵であるというのが事実なら、私たちはもう知っています。しかし、私たちはそれを経験せねばなりません。知恵とは、非現実的な考え(まさしく恐怖やためらい、もしくはその変形である気休め)で我々の頭を満たすためのものなどではありません。知恵とは、生きるために、進化するために、より強い意志で大胆になるために、学ぶものです。

分かりきったことですが、知恵に近づくためには、我々は地図にないたくさんの道を進まねばならず、経験という入り組んだ森を抜けねばなりません。恐れのために引き下がり、こうした困難は避けるのが身のためだと思い込んでいるのは、単に人生の避けがたい運命を先送りしているにすぎません。もっと悪いことには、先送りのせいで私たちの将来は、絶え間ない恐怖の陰に覆われ、平凡な快適さを好んで障害の克服を後回しにしたせいで生まれなかった内なる英雄を待つうちに手遅れになったチャンスへの後悔に覆われてしまうのです。

一歩ごとに恐れを打ち破ることを学びさえすれば、人生は知恵の宝庫です。これはあなたの人生、あなたの歩みなのです。恐れることはありません。

【本当の勇気を見分ける方法】

内省に根ざした勇気と本能に根ざした勇気の話をするなら、プラトンも言っているとおり、もしある人の中でこの二元性が完全に対立していたとすれば、その人が内なる秩序を確立できていないことの反映になるでしょう。もしその人に秩序――またの名を正義――があるなら、その人の感情がどれだけ本能的であっても理性的な内省と調和がとれていることになります。

もし本能が広まれば、勇気は無謀さに変わり、人間を手に負えない危険へと駆り立てるか、虚栄心を増長させる結果に終わるでしょう。そうなれば、勝利よりは失敗のほうに近づくことになります。逆に、冷たい内省のみに従えば、私たちは勇気ある人間でなく、ただの無関心な人間になるでしょう。

この二元的な世界の中で、私たちが身に染みているとおり、この無関心が美徳となることはまずないでしょう。つまり、恐怖を知らない人、恐怖を感じたことがない人は、勇気を認識することができず、つまり恐怖を克服する能力がないのです。

したがって、勇気とは高尚な感情、まさに知性との結びつきによって高められた感情なのです。勇気――プラトンの言う、魂の「気概」の側面――とは、それが本能面に従っての活動なのであれば、勇気というよりは、解放された本能的な力です。

【怒りを制御し、勇気を育てる】

怒りにのめりこんだ人物は、二つの意味で囚われています。まず、その人は自分自身の奴隷です。自分の魂の中の最もがさつで乱暴な部分が、洗練されて思慮深い魂を乗っ取りかねないからです。次に、その人は他の人の奴隷でもあります。自分自身の制御を失うことで、その状況を自らの利益に悪用する人々に対して無防備になるからです。怒れる人の魂は他人の手の中にあるのです……

自分を爆発させるような議論の中で、短気な人がなんと簡単に怒ることでしょう。彼らがなんとたやすく状況の「支配者たち」の仕組んだ決定に乗せられてしまうことでしょう。

状況を操る人は彼らに、彼ら自身が自らの行動と言葉の設計者であると信じ込ませます。しかしそれらはみな、あらかじめ決められたことなのです……

怒りを征服するのは良いことであり、怒りを勇気に置き換えるのはさらに良いことです。勇気は私たちの真の心、本物の人間の魂を働かせます。勇気とは、物事をあるがままに見、私たちの感情を和らげ、耳を傾け、考えを読み取り、価値あるものを選び、価値のなくなったものを捨て去り、正義とともに動くための大胆さなのです。

【恐怖と無知】

私たちはどんなものを恐れるのでしょう? 自分の知らないもの、どう向き合ったらいいか分からないものです。では、私たちの恐怖、疑いとはいったい何なのでしょう? 単に無知です。

もし私たちが物事を知り、光を当て、自分の周りのもの、内なるもの全てに目をやるなら、恐怖と疑いは消えるのです。


元記事URL
https://library.acropolis.org/fear-and-courage/

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