謙虚さという美徳は、優れた調停役であり、魂がもっと美しい音楽の中で人生を送れるようにするための黄金の竪琴だと、私は理解するようになりました。謙虚さは、私たちのエゴのひどい音を鎮め、私たちの魂を共鳴させる弦の準備を整えます。内なる段階を上る魔法は、自らの立つ地面を受け入れた時に現れます。この意識の中で、私たちは「言い逃れをやめ」(エピクテトス)、自分自身を落ち着かせるのです。謙虚さがあれば、自分の「あるがまま」をもっと受け入れられるようになるため、仮面をかぶる必要性は下がります。今日すぐは無理でも、明日は――だめと言い切ることなどできるでしょうか? 自分の弱さと接し続けることによって、真の変化は可能になるのです。
仮面をかぶる必要性が下がれば恐れが減り、これによって魂がさらなる自由を得るという利点が加わります。見せかけを減らせば、とっくに身の丈に合わなくなった態度で自分を保とうとするための無駄な時間を減らせます。謙虚さは、物質主義的な生活のかなりの部分を飾っている表面上の障害を追い払う助けになります。しじゅう他の人に対して「装おうとして」いた物事たちが「大事ではなく」なりますが、これは注意力がなくなったからではなく、優先順位の軸が「どう見せるか」から「自分自身の内面のありようをどう知るか」へと動いたからなのです。謙虚さは私たちを自らの心の中へ向かわせ、自分自身を自然に、率直に見つめる、寛容な内面の状態へ向かわせるのです。
謙虚さは、うまく用いれば、日々私たちに困難をもたらす無数の形のプライドに順応・対抗する助けとなります。傲慢さとは多かれ少なかれ露骨な形態ですが、かつて私の師が書いたとおり、「無用さのはき違え」というもう一つの危険な形態が存在します。この形態は、「私にはできない」という態度を積み重ねてきたからという理由で、自分自身を完全に控えめだとみなすというものですが、これは謙虚さの誤った形態です。私たちの意識的な行動を内なる姿勢が妨げるのであれば、その姿勢は誤ったものだと認識できます。意識的な行動に時間と忍耐が必要となる状況は多くありますが、意識的に待つという態度と「私にはできない」という態度の違いは、とても大きなものです……私たちは、自分の可能性を一歩一歩築いており、その歩みが小さい時もあれば、理屈に逆らってあり得ない飛躍を遂げる時もあります。最も大事なのは、指示すること、そして指示を続けることです。
じわじわと仮面を手放し、少しずつ自由を手にするにつれて、私たちは困難に向き合うことに慣れてゆき、内なる勝利をも手にしてゆきます。自分自身の内なる風景をよく知るにつれて、その地形への違和感は減ってゆきます。が、そうなると、予期せぬ時にさらに困難な対決に見舞われるようになります。私の考えでは、特に信頼にまつわるものです。私は自分の向かっている先を信頼しているだろうか? 自分自身を信頼しているだろうか? 自分と、人生に囚われて悩んでいる周囲の人全てを信頼しているだろうか? 信頼との対決はある意味、最も困難なものです。この深淵に直面したとき、謙虚さは私たちの足を山のふもとに着けさせ、目を頂上へ向けさせます。自分のこれまでいた場所と行く先の神秘についての知識は、私たちの前進を穏やかに助けます。謙虚さは、決して私たちを無意味な方向へ向かわせたり、人生から離れさせたりはしません。絶望のただ中にいる時、謙虚さは私たちを自分自身へ戻らせますが、それはこの神秘の根元へ戻らせるということです内なる慰めの音色はこう言います。「過去に何が起ころうと、明日はもっとよくやれる。太陽はまた昇るし、我々も同じだ」
まとめると、謙虚さという美徳は孤独と物質主義への解毒剤であり、これが働いているときは物事をあるべき場所に収め、またそうすることで私たちを全体の中の自分の場所ヘ戻すものです。プロティノスは「美徳がなければ、神とはただの単語に過ぎない」と言っています。この言葉に続けるなら、美徳によって、「神」、つまり神聖な、あるいはスピリチュアルな共鳴、そして私たちの最も崇高な価値は、私たちの内部と身の回りに実在する現実として、その姿を表すのです。
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https://library.acropolis.org/some-thoughts-on-humility/
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