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皇帝ユリアヌス――背教者か、哲学の英雄か(その1)

スティエパン・パレイサ著、長谷川涼子訳

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ヨーロッパ史における最も偉大な人々の一人であり、その考えや業績が歴史に深い跡を残したある人物のことは、今では忘却の彼方に追いやられています。キリスト教徒から「背教者」と呼ばれ嫌悪されている、ローマ皇帝ユリアヌスです。

紀元4世紀には、ローマはその精神的なエネルギーをほとんど使い果たしていました。その素晴らしい社会体制は、「あらゆる異なったものを生きて機能するままにまとめ上げる」というかつての統治方式ではもはや機能しませんでした。今や、調和のとれた全体の中の一部としてお互いが補完し合う代わりに、国内で宗教やイデオロギーの違いが増大し、摩擦を引き起こしていました。共同体と根本的平等に基づいたローマ帝国の理想像は、ほとんど消滅しかかっていたのです。

魂、そしてその古代の叡智の価値を再び目覚めさせるその試みの中で、ユリアヌスは古代の図書館や大学を調査しました。そうした機関の哲学、倫理、論理に身を浸し、かつてのローマを作っていたそれらの価値を復活させる土台として、それらを用いるためでした。

経歴

フラヴィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、紀元331年にコンスタンティノープル(今のイスタンブール)で生まれました。父のユリウス・コンスタンティウスとコンスタンティヌス大帝は異母兄弟でした。337年にコンスタンティヌス大帝が亡くなると、その息子の新皇帝コンスタンティウス2世は帝位を脅かされるのを恐れ、ユリアヌスの男の親族のほとんどを暗殺しました。その中にはユリウス・コンスタンティウスとその長男もいました。生き残ったのはユリアヌスと兄のガッルスだけで、まだ子どもだったからという理由でした。

しかし、コンスタンティウス2世は彼らをカッパドキアの遠い地へ追放し、社会との接触を断ちました。その孤立した場所で、二人は子ども時代と青年期を過ごしました。彼らとの接触を許された者はいませんでした。彼らは家庭教師の厳しい監督のもと、召使いや奴隷とともに教育を受けました。しかし、ユリアヌスはその若年期、新プラトン主義の教師の影響で、密かに古典文化の遺産を受け入れ、押し付けられたキリスト教の信仰を完全に拒否しました。後にこの時期を回想し、彼は「この暗黒の時期が忘却の彼方に去らんことを」と書き残しています。

コンスタンティウス2世には子がなかったため、351年にガッルスを登用して副帝の地位を与え、妹のコンスタンティナと結婚させました。この時ユリアヌスの追放も解け、その後の数年で小アジアやギリシアを回り、ペルガモンのアエデシオスやエペソスのマクシムスといった、当時最も優れた新プラトン主義哲学者たちの間で学びました。エペソスのマクシムスのことは師と仰ぎ、生涯にわたって最大の尊敬を示しました。

皇帝の座について4年、恐怖と嫉妬にかられ、コンスタンティウス2世はガッルスを暗殺しました。したがって、生き残った皇帝の男性の親族は、一度会ったきりのユリアヌスただ一人になりました。ユリアヌスは自分にとって危険な宮廷から距離を置くためにあらゆる努力をしましたが、一年後、兄の代わりに副帝の地位を受けるよう呼び出され、それと同時に、コンスタンティウスの二番目の妹ヘレナと結婚しました。

兄の最期を覚えていたため、ユリアヌスにとって、このことは社会復帰や権力の移譲というよりは見栄えのいい死刑宣告に映りました。彼自身が述べているとおり、この地位は最も悲惨で困難な隷属でした。コンスタンティウス2世がユリアヌスをスパイや護衛で取り囲んだため、彼が接触する人物はみな、厳しい統制と継続的な監視のもとに置かれました。

ユリアヌスは大変な努力をして、以前の使用人のうちの4人を登用しました。そのうち一人だけが、ユリアヌスが古い神々を崇拝していることを知っており、彼らは時々ひそかに儀式を行いました。

コンスタンティウス2世はユリアヌスを追い払う決心をし、壮麗な制服を与えると、紀元355年の真冬、なんの軍事経験もないまま北方のケルト族の地へ向かわせました。コンスタンティウス2世自身はその地を放棄し、蛮族の地にしていたのです。この地に割り当てられた軍隊は、終わらない戦い、何か月も未払いの給料、食料と武器の不足に疲弊し、士気が低下していました。規律は史上最低レベルに落ち込み、蛮族の話題が出るだけで兵士をおびやかすのに充分だったのです。ユリアヌスが到着して目にしたのはこのような有様で、彼は司令官ではなく、下位の一司令官とみなされていました。ユリアヌスの唯一の責務は、コンスタンティウス2世の皇衣を着てその意向を兵士たちに伝えることでした。 

しかし、ユリアヌスの評判は軍隊の中で上がっていきました。自身の哲学的な原理によって、彼はどんな不利な状況も耐え忍ぶことを学んでいたのです。軍事訓練は受けていませんでしたが、彼は一兵卒としていつも最前線に立ち、良いことも悪いことも、寒さも苦難も他の人と分かち合いました。着任した時から、軍の行動は道徳的になり、その年は成功の裡に終わりました。

恐怖にかられ、コンスタンティウス2世は軍の司令官マルケルスを疑い始め、彼を処刑するよう命じました。ユリアヌスが弱体化・無力化されたと確信し、紀元357年、皇帝はガリアの全指揮権をユリアヌスに渡しました。

軍事訓練こそ受けていませんでしたが、その模範的な人間性と、迅速かつ素晴らしい行動で、ユリアヌスは軍の信頼を勝ち取り、次々に勝利をおさめます。失われていた40以上の街が帝国に復帰し、そこへユリアヌスは文明、平和、安全の価値を取り戻しました。彼は行政の課した重税を削減し、責任ある役職を最も気高く有能な人々のものと定めました。これらのの出来事は奇跡の前触れのように起こり、まるで彼の崇める神々がユリアヌスに転生し、歴史上の役割を果たす責任を負っているかのようでした。不可能なことは何もないようでした。

蛮族たちはガリアから追い出されました。ユリアヌスはブリタニアから200隻の船を持ってきて、さらに400隻を10か月以内に造りました。ユリアヌスはライン川へ侵攻し、降伏した地域で支配を確立しました。また能力の高さからだけでなく、その道徳心と正義から、蛮族の人々の尊敬も得ました。この時期を通して、彼は法を守り、自分の親族を殺した者へ誠実に仕えました。

ユリアヌスの望まぬ成功は、またしてもコンスタンティウス2世の嫉妬を買いました。これこそ、彼がユリアヌスにほとんど実行不能な命令を与えた理由でした。ユリアヌスの最も強く勇敢な軍は、一人残らずガリアを離れ、極めて短い期間でペルシア国境に着任するよう命じられました。目的はユリアヌス、ついでにガリア全域の武力を取り上げることであり、蛮族の手に委ねれば皇帝の汚れ仕事をやってくれるだろうというわけでした。

ユリアヌスは軍団の大移動の準備をしましたが、明け方の出発時刻になって、兵士たちはその場を囲んでコンスタンティウス2世に反旗を翻し、ユリアヌスに皇帝を名乗るよう求めました。しかし、ユリアヌスはその地位を望みませんでした。言い伝えによると、帝国の守護神が彼の夢に現れ、その地位を受け入れるよう求めたということです。紀元360年、ルテティア(現パリ)付近での出来事でした。

その後でさえ、ユリアヌスはコンスタンティウス2世に立ち向かうことを望まず、自らを皇帝と考えてもいませんでした。彼の望みは自分の軍とともにガリアで平和に過ごさせてもらうことだけでした。彼はコンスタンティウス2世をなだめる手紙を送るよう全軍に呼びかけました。しかしコンスタンティウス2世は蛮族に賄賂を贈り、ユリアヌスの軍を絶えず攻撃して兵士たちの手をわずらわせ、生活をおびやかすようにしました。一方、皇帝自身はガリアに行く準備をしていました。ユリアヌスは、予言に後押しされてこれに気づいた時、まっすぐコンスタンティノープルへ軍を向けることを決断しました。「これは私一人が危機を脱するだけでなく、全ての人、特にコンスタンティウス2世二度裏切られたケルトの人々の幸福と自由のためだ」

不可能な任務に慣れっこになっていたユリアヌス軍は「無茶苦茶な速度で進み、風のように飛んで」、紀元361年初冬、ナイッスス(現ニシュ、セルビア)に到着し、コンスタンティウス2世との決定的な対決を待ちました。しかし、ほぼ確実となったはずの内戦は、コンスタンティウス2世の急逝によって回避されました。

法的に(そしてほとんど奇跡的に)皇帝となったユリアヌスは、帝国の完全な復興に努めました。まるで、彼自身にあまり時間が残されておらず、命のあるうちにこの堕ちた巨人を復活させようとしているかのようでした。彼は昼も夜も、疲れを知らず働き続けました。あらゆる人々と宗教が自らの権利と志を実践できる、平和と寛容の場としてのローマの聖なる理念は、混乱した迷路の時代にあって、彼の導きの星でした。

皇帝として、高位の聖職者として、立法者、裁判官、軍の司令官、経済改革者、そして一人の兵士として、ユリアヌスが異なった役割のもとに行動しているのが見て取れます。彼の個人的な見本は、ふるまいの手本でした。皇帝の唯一の任務は民の繁栄に努めることであり、彼は夢の中で帝国の「守護神」を訪れ、その責務を続けるよう勇気づけてもらうのです。彼は、詐欺師、泥棒、おべっか使い、策謀家、居候などの人々を一掃しました。また、信仰の寛容と自由を甦らせましたが、他人の宗教を許容しない人々に対してさえ、そうしました。

紀元362年秋、ユリアヌスはペルシアに対する軍事作戦のため、アンティオキアに到着しました。ここで、彼は最大の失望の一つに直面することになります。自らが理想としており、ホメロスやプラトンの頃に実在していた古代ギリシアの魂が、ほとんど取り去られてしまっていることに気づいたためでした。もはやギリシア人は「古代の美徳を守って」いないと、彼は手紙に書いています。代わりに、彼はケルト人やイリュリア人、ゲルマン人を称賛し、自らの魂の親族と呼んでいます。手紙の中には、「野蛮な」ヨーロッパへの彼の憧憬が繰り返し出てきます。

ペルシアへの道すがら、ユリアヌスの小さいながら勇敢な軍は連勝を繰り返しますが、その途上でユリアヌスは胸に致命傷を受けました。彼の最後の考えと祈りは、彼の慕っていた神ヘリオスに捧げられました。

元記事URL↓
https://library.acropolis.org/emperor-julian-apostate-or-hero-of-philosophy-part-1/

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